片付けをしていたら珍しい物が出てきた。
計算機、いや計算尺
計算尺を征する者は世界を征す。と言われていた様な記憶があるが…
これは親父が使っていた物か兄が使っていたものか不明だが….親父はこのタイプとは別に丸い計算尺も持っていたなぁ….
実は私はこの計算尺なる物を全く使えない。だから、世界征服など出来ない_| ̄|○
習った事なども無い。時代が違う。
私は答え一発!カシオミニの時代の人なのです(と言っても分かる人は相当な年の人だな…)
私が子供の頃、叔父はタイガー式って言うのだったか?
歯車が一杯付いたやつでハンドルグリグリ回す計算機を持ってたなぁ…
ヤフオクでも売っているので1つ欲しいなぁ….
母親はうちの会社の事務やっていたのでドイツ製のプリンターが表示器兼用のレジスターみたいな計算機使っていたなぁ〜。掛け算は出来なかった、足し算引き算のみのやつ。事務では十分か…そろばんも使ってたなぁ。あれ駆動はモーターで計算していた、やっぱり機械式
のちに親父の社長机の上にはキャノンだったか、16桁電光管式の電子計算機が鎮座して居たなぁ….当時数十万だから、今だと軽トラくらい買えるんじゃなかろうか???
変化の激しい時代だったなぁ…って、今も同じか
携帯電話はアンテナさえ無くなり、世界とつながっているものなぁ….
今なら世界を征する者は何使う?
だれか教えてくだされ
私の計算機はこれ。カシオのプログラム関数電卓FX-602Pのエミュレータ。iPhoneアプリ、これはiPadだが勿論iPhoneにも入れている
FX-602P Sim 既に本家カシオ実機よりも使いやすくスピードも速い
コメント失礼します。この古い記事に書き込んで今届くのかどうか疑問ですが
昔を懐かしんでgoogleで本山のMAPを見ていて、高校生の時にアルバイトをさせてもらった窪屋さんがなくなっていたのに気づき、ネットを巡ってここに辿り着きました。
私がアルバイトをしたのは多分大窪社長さんがK大学?の学生時代。お兄さんもバイトされてました。凄いアメ車が印象的でした。私はNC旋盤メインで同時期にアルバイトをさせていただいてました。私の親と先代の社長さんが同業の仲間だったことでバイトをさせていただくことになり。
お母さん、本当に良い人で、明るくて優しくて。いつもお昼のお弁当の時にいろいろ楽しい話をさせていただきました。
でもアルバイト2年目には。。とても残念で。世の中の理不尽さを高校生ながら当時感じてました。
窪屋さんでのバイトは思い出したくないくらいつらかったけど、大窪さんご家族と接することが出来たのはとても良い思い出です。
ちなみに、私は計算尺検定4級所持者です。その時代の人間です。
山本さん、こんばんは
掲示板システムが不具合起こしていた様で気が付くのが遅れてしまいました、申し訳ないです
母親をご存知という事だから…母は肝臓癌で他界したのが1977年12月ですから45、6年前という事ですかねぇ。
年齢的に私とそう違わないのかなぁ…
会社はしょっちゅう覗いていたわけではないですが、朧げではありますがちゃんと覚えていますよ。
工場は95年の阪神大震災でことごとく破壊され、拠点も現在の西区の工業団地に移す事になり現在に至っています
当時町工場にしてはNC機を多く並べていたので、一見優良な会社に見えたかもしれませんが所詮大会社の従属的下請け会社に過ぎなかった筈です。まぁこの体質は今も残念ながら変わっていませんが(汗)
2年目にはとても残念で… 童夢だったかレーシングカーのミッションだったかクラッチケースだったかの件ですかねぇ? その話は父親から当時聞いた覚えがあります、この件ではないのかな…
いずれにしても嫌な思い出は忘れてください(>人<;)
…接する事が出来たのはとても良い思い出です
そう言ってもらえて少なからず安堵しておりますm(__)m
経済の動きもそうですが、大自然も地震あり台風ありコロナあり、近い将来東南海地震もありそうだし…
これは計算尺使っても計算出来そうにないなぁ…
大窪さん
覚えていていただいて嬉しいです。
1977年のアルバイトは毎日毎日旋盤やフライスに材料を付けては加工が終わったら外しての連続で、1日が長く感じて7時の終業が待ち遠しかった、帰ってTVで見るNHKのオリンピックダイジェストでコマネチを見るのだけが楽しみの1か月でした。
でも時給は当時としては破格の1000円オーバーで、夏休みが終わった時には憧れのオーディオが買えたものでした。
当時の窪屋さんには3800万円の三菱のNC旋盤をはじめ多くの機械が並んでいて、うちの親父も自分でできないものは窪屋さんに持ち込むという頼りになる会社だと聞いていました。
新明和からの依頼のプロペラの仕事ではプロベラの取り付け面側に渦巻のような加工指示があり、どうやって加工していいやら分からなかった物を見事に仕上げてくれたというエピソードも聞いていました。
でも仙台の社長さんはストイックすぎて高校生の自分には怖~い存在でしたが。
でもこのブログで再び繋がることが出来てうれしいです。
コロナが落ち着いたら飲みに行きましょう!
ちなみに、うちの親父の工場(跡)には、まだエリコンの旋盤ありますよ。関係ない話ですが。
山本さん、おはようござます
コマネチですか…リアルで知っている年代も50以上と言う事になりまね。懐かしい話ですね、その後ビートたけしがコマネチとやっていましたが、いつの間にか監督にもなり世界のたけしになりましたからね、わからないものです
震災後にうちの父と山本さんのお父さんにお会いした事がありますよ。
新日鐵の工場用建屋のパッケージがあると言うのを教えて頂きました。同じ様なシステムが川崎製鉄にもあり、図面を書いてもらってサイン直前まで行ったのですが諸事情でゴーとはならなかった…._| ̄|○
この話は機会があればまたの時に…
私の知らない話も色々ありそうですねぇ..じっくりお教えていただきたいです。その日を楽しみにしています
こんばんは。
うちの親は窪屋さんが屋根のない露天で仕事を続行されている事を気の毒だと言ってたので、その後解決策を探したのでしょう。親父は他人に気遣いするタイプでは無かったのですが、見過ごせ無かったのですね。
確かに、私がそれを聞いて窪屋さんを見に行った時は建物は無く機械にブルーシートが掛けて有りました。日曜日だったのかな。
雨の日はどうされていたのですか?
お互い知らないエピソードがありそうですね。
会って話す時が楽しみです。
早くコロナ収まって欲しいですね。
山本さん、こんばんは
もう四半世紀の前の事となってしまったので時系列を整理しないと正確には語れないですが…
ブルーシートを手配するのも大変だったなぁ…
建屋を撤去するのも手配し…
移動する手段が無いので学生時代の友人にオフロードバイクを借りたり…
受注していた仕事を転注手配したり
修理出来る機械を出したり…
工場用倉庫テントを発注したり
それぞれ語り尽くせないほどの事があり、また多くの人のお世話になりましたね
今考えると不思議な事が沢山有りましたよ
文書では書き切れないのでお会いした時にでもじっくりとお話ししますが…
幸か不幸か、人それぞれ人生ありますねぇ…そんな話もまたの機会に…